U.都内の富士塚(ミニチュア富士)§-1
《 (10 m 程度の富士塚、文化財の富士塚) 》
U.都 内 の 富 士 塚 (ミニチュア富士) - §1 10m程度の有名な富士塚、文化財の富士塚 |
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富士塚とは | |||
富士塚リスト | |||
1. | 品川富士 | 国-1 | 豊島長崎富士 |
2. | 成子富士 | 国-2 | 江古田富士 |
3. | 大泉富士(中里富士) | 国-3 | 下谷坂本富士 |
4. | 砂町富士 | 都-1 | 千駄ヶ谷の富士 |
5. | 東大久保富士 | ||
6. | 高田富士 | ||
7. | 多摩川富士 | ||
8. | 目黒富士 | ※ | 富士山の噴火記録 |
V.都 内 の 富 士 塚 - §2 6m程度の有名な富士塚 |
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* 鉄砲州F、音羽F、駒込F、十条F、田端F、飯塚F、池袋F、 等 | |||
W.都 内 の 富 士 塚 - §3 その他の富士塚 |
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* 安養F,平井F,逆井F,亀戸F,下亀田F,上亀田F,篠崎F,神田柳森F,白髪F,南千住F、千住本宮F、上落合F,西大久保F,新宿F,羽田F,等。 | |||
]].富士塚関連 HPリンク集 |
日本の象徴ともいえる霊峰“富士山”。 江戸時代から、富士山にお参りする信仰が盛んでしたが、一般庶民はそう簡単には行けませんでした。そこで考えついたのが、身近な場所地元に富士山のミニチュアを作り、誰でも富士参拝が出来るように築いた“富士塚”。 都内にはまだ多くの富士塚が残されています。 土地一升・金一升の高価な都心ですので、次第に富士塚は建造物設置のため、消滅してきています。
由緒ある歴史の“富士塚”を訪問しました。 現地報告をしたいとおもいます。 参考になりましたら幸いです。
U. 都内の富士塚 〜 ミニチュア富士山 §-1:10m程度の有名な富士塚、文化財の富士塚
【富士塚・富士講】
・ 富士塚(ふじづか)は、富士信仰に基づき富士山に模して造営された人工の山や塚。
・ 富士塚は富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所。
・ 富士山信仰「富士講」の遺跡とでも言うべき「富士塚」のこと。
・ 富士塚は富士山を信仰する人々が造った山。
・ 「富士講」は、富士山に登り、浅間神社に参拝することを目的に結成された。
・ 富士講は、江戸庶民の信仰で、富士山を対象として講を組んで富士山へお参りに行っていました。
・ 富士講の「講」は、クラブやサークルのようなニュアンスのもので富士塚はこの富士講によって造られたものだけを指すようです。
・ 「講」とは、宗教や経済などの目的達成のために組織された集団。
・ 講とは信仰グループのことで、富士講は富士信仰の組織で「富士山へ登る会」といえる。
・ 富士講は、江戸後期には、「八百八講」といわれるほどに多くの富士塚が富士講の手で造山された講数が増えて人気があった。
・ 富士山への参拝が33回達成すると、「大願成就」。
・ 当時の富士山は女人禁制であり、また健康面・金銭面等で庶民が富士登山を行うことは、非常に大変なことであった。 富士講社はそのような人々のために、身近な場所地元に富士山のミニチュアを作り、誰でも富士参拝が出来るように築いたのが富士塚。
・ 霊峰富士に登れば救われるという思想や、吉宗の改革により庶民に質素倹約を押付け、経済活動が規制された等の鬱積した庶民感情のはけ口の一つとなり、レジャー的要素も加わって江戸中が富士信仰のブームとなり、富士講が増えた。
・ 富士山を模した山(富士塚)を築き、それに登ることによって富士山に登ったのと同じご利益を得ようという方策でした。
・ 富士塚が身近にあるからといって、いつでも登れるというものではなく、富士山と同様に登山期間が定めら、今でも、七月一日にお山開きの祭礼を行っている富士塚があります。
・ 富士講では、富士登山をすることを目標にし、富士山に登ることによって、健康や幸せ、一家繁栄などの現世利益を得ることができるとされた。
しかし、女人禁制の霊山であったし、遠路なので老人や子供には無理があった為、誰にでも登拝の喜びが味わえるようにと、早稲田の水稲荷の境内に小高い人造富士を築いたのが評判となり、各地に富士塚が築かれた。
・ この「富士講」の江戸における遥拝所(ようはいじょ)が「富士塚(富士山)」で、現在も都内各地の寺社にあり「お富士さん」とよばれて土地の人の信仰の対象になっている。
・ 富士山を神として崇める富士山信仰は室町時代中期に始まり、江戸時代中期から末期にかけてより盛んになった。
・ 江戸の町では山開きが行われる旧暦の6月1日の早朝、家々では軒下に富士山・富士浅間神社を拝むための線香に火を点けた。この風習は、明治末年まで東京の一部で行われていたと伝えられる。
・ 富士山は古来より、憧れと畏敬、そして招福の願いをもって眺められ、人は富士山の霊力をどうにかして得たいと考えた。
・ 富士山登山は普通の人にはできない。そこで一般庶民が造ってしまったのが富士塚です。
・ 徳川家康は江戸の町をつくった時、富士山のパワーを引き込む目的で、富士山と江戸城を結ぶ線を軸にして通りをつくり、町を形成していったという。
・ 富士塚は、富士山を模した山というだけではなく富士山そのものという意味をもっていた。
・ 造営の方法として主に、富士山の溶岩を積み上げたもので、すでに存在した丘や古墳を利用したものがある。
・ 富士塚には、小御岳石尊や烏帽子岩が置かれ、お中道巡りや頂上お鉢巡りができるようになった塚もある
・ 山道は、実際の登山道の九十九折りを模してジグザグに造られている。中間には、烏帽子岩を象る岩が置かれる。
・ 東京の富士塚は、富士山から運んだ溶岩で塚の表面を覆ったのが特色。富士山に似せるために,山肌は溶岩で覆われていることが多い。
・ 頂上には浅間神社を祀る。富士講が盛んになった江戸時代に造られ、関東地方を中心に分布する。
・ 一般に、富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としている。 その他、富士塚の石造物には、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、講碑、教祖角行像、一対の天狗像、胎内が配置されている富士塚もある。
・ 多くの富士塚が登山禁止になっている。理由は、重要文化財保護、登頂危険等のため。 但し、幾つかの富士塚は、7月1日の山開きと正月、ある特定の期間に登れる富士塚がある。
・ 多くの富士塚が最近の都市化により宅地化されピルが建てられているようです。一部放置されたものもあるようですが、神社に併設されているので、神事が営まれる保護されて綺麗な状態が保たれているものも多いようです。貴重な文化財として今後も保存が望まれます。
・ 富士山の山開きの日7月1日 (旧暦では6月1日)に富士講が富士塚に登山する習慣がある。
・ 基本的に富士塚の上から富士山を望むことができるように築造されていますが、近年の家屋の高層化に伴い直接富士山を視認できるものはほとんどないようです。
・ 富士塚は大きいもので高さ十m程度で、児童公園の築山ほどの大きさですが、富士山から運ばれた溶岩が積み上げられ、本物の富士山同様の登山ルートと要所要所の信仰対象が再現されている。
・ 「小御嶽(こみたけ)石尊大権現」は、実際の富士山の五合目にある富士山小御岳神社のことで、かつては石尊大権現ともよばれていた。
・ 富士塚の数は、都内に約80、都下に約30、関東各県を合計すると約500以上あるようです。
・ 記録に残る日本で一番古い富士塚は、安永九年(1,780年) 、身禄の直弟子で造園師だった高田藤四郎が、江戸の高田、現新宿区戸塚に築いた「高田富士」といわれている。 この高田富士は富士講及び富士信仰に関する重要な史蹟であり文化財であったが、1,964年(昭和39年)頃に早稲田大学のキャンパス拡張(現在の早稲田大学9号館)により破壊され、近隣の水稲荷神社に代わりの富士塚が建てられた。
・ 「富士塚」に関する書物は、”富士市立博物館編「富士見十三州 富士塚調査報告書」。目黒区郷土研究会の会報「郷土目黒 第45集(平成13年)」が貴重。
・ 下谷坂本の富士塚、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚は国の民俗文化財(有形)に、千駄ヶ谷の富士塚、中里の富士塚は都の有形民俗文化財に指定されている。
・ 富士山を神として崇める富士山信仰は室町時代中期に始まり、江戸時代中期から末期にかけてより盛んになった。江戸の町では山開きが行われる旧暦の6月1日の早朝、家々では軒下に富士山・富士浅間神社を拝むための線香に火を点けた。この風習は、明治末年まで東京の一部で行われていたと伝えられる。
〜 HP:“富士詣り・富士講・富士塚”、 その他 フリー事典等より。
《 富士塚の定義・アイテム 》
* 「富士塚」の厳密な定義はないようですが、凡そ下記のように解釈してよいと思います。
【 富士塚の定義】 下記の各要素を満たしたもの
@ 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山で、表面に黒ボク(富士山から運ばれた溶岩)を張り付けたもの。
A 塚の部分に浅間神社または同等の祠・碑を祀ったもの。
B 登山道を設けて登拝できるようにし、登山道に沿って小御嶽碑、合目石、烏帽子岩、御胎内その他の付属物のいずれかを設けたもの。
* 下記の物があること。
1.富士講信者が山を築造し、周りを黒ボク石で固めた物。
2.登山道を作り、合目石を建ててあるもの。
3.山頂に浅間神社などの祠・石碑を祀ったもの。
4.古御岳神社、烏帽子岩、御胎内その他の付属物が設置されている。
* 富士塚には4つのアイテムがある。
@ 頂上に奥宮がある。
A 中腹(5合目)の右側には小御嶽神社。祠または石碑で。
B 7合5勺に左側に烏帽子岩をつける。 烏帽子岩の文字の石碑、又は烏帽子の形をした岩。もう1つは食行身禄の像。
C 山裾、右側に胎内として洞窟をつくる。
《 富士山詣 》
・ 奈良時代、富士山は、山自体をご神体とする山岳信仰の対象であった。
・ 富士山を開いたのは、「日本霊異記」によれば役小角・役行者(えんのおづね)とされている。
・ 平安時代になると、富士山を修行の場として役小角を開祖とする修験道者が活動し、富士山信仰が始まったとされる。この時代の信仰の対象は「浅間大神(あさまのおおかみ)」であり、その後、「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」も祭られている。
・ 富士山のミニチュアは本物の富士山と同じに造られており、神社だけでなく、お中道もあって、簡単に本ものと同じ体験ができるようになっているので、ご利益もある程度同様に期待されている。
《 富士講の開祖 》
@ 伊藤食行身禄:「食行身禄」(じきぎょうみろく)。
⇒ 富士講中興の祖と言われ、享保十八(1733)年の夏に富士山八合目烏帽子岩(富士講の聖地)で31日間断食行をしてそのまま入定した。 断食の行をしたので、「食行」と言われる。 「小御嶽石尊(こみたけせきそん)大権現」の祠があれば、食行の入定場所を指し示す。(烏帽子岩は、富士山吉田口の7合目の元祖室に接して現在も残っている)。
1733年、幕府の政策に抗議して富士・烏帽子岩で入定・ミイラ化。亡骸は、駒込の海蔵寺に埋葬。その思想の根底には、「身を禄にする」という名のとおり、町人道徳観が見られる。食行の死後、江戸に富士講四百余(俗に八百八講)といわれるほど、爆発的に流行。
A 藤原角行:「角行」(かくぎょう、 1,541〜 1,646年(1,648年?))(室町後期〜江戸初期)。
⇒ 4寸5分の角材の上で1000日間の修行をしたので、「かくぎょう」と言われる。 100歳以上の長寿だったので甚だ謎が多い。
富士の人穴で修行。
B 日行青山:「高田藤四郎)」
⇒ 食行33回忌に、富士塚第1号高田富士をつくった中心人物。 1779年完成(江戸後期)。
《 富士禅定(ふじぜんじょう) 》
・ 富士山上で修行すること。
・ 江戸時代、先達に導かれて、富士行者の服装を調え、3日または7日の精進潔斎の富士垢離を行い、登頂する富士講の信仰行事であった。
《 最初の富士塚 》
・ 富士塚の第1号は、安永八(1779)年、高田の地(現在の早稲由大学商学部)に富士講(富士山を神として信仰する民間信仰の団体)の行者によって築造された。
〜 フリー辞典等より。
《 富士講 》
・ 富士山を信仰する集団に富士講がある。九州長崎出身の長谷川(藤原)角行が、富士講の開祖といわれ、富士山の人穴で永禄元年(1558)に、四寸角の上に爪先立って千日間の立ち行の末に悟りを開いたとされ、さらに、富士登山百数十回、断食三百日など数々の難行苦行を行い、106歳で人穴で入寂したと伝えられている。
・ 富士山に行くことのできない人たちは、陰暦6月1日の前後、江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、境内の富士塚に登って代償とした。
・ 富士塚は、安永9年(1780)行者の藤四朗が高さ五間の富士山の雛型を造り、「富士山に登ったのと、同じご利益を授けていただけるように」と祈念したのが始まりといわれており、これが江戸に流行して、多いときには50カ所以上の富士塚があったとされる。現在でも都内には、10カ所程度残っている。富士塚は、神社の境内だけでなく、寺院や民家の庭先などにも造られていたが現在ではほとんど神社の境内に残るのみである。
・ 富士詣りの富士山本宮以外のルートには、御師の宿坊が現在でも数軒ある。御師たちは御師団と呼ばれる組合を組織し、地元の浅間神社に仕える神職を持ち回りで選出する。御師は、富士講を含めた富士登山者を宿坊の自宅に泊め、登山にあたっての修祓などの宗教的・事務的手続きを行ったり、強力の世話など行う。また、富士講の先達に、富士講の教義や行名と呼ばれる行者としての名前などを金銭を貰って与えたり、富士講の本尊である身抜や教典の類を発行した。
・ 富士講は、山頂での参拝のあと、富士山本宮、人穴(富士宮市)、白糸の滝、道了尊(南足柄市)や大山不動(伊勢原市)に詣で、箱根などへも足を伸ばし楽しんで帰った。
・ 講の起源は、仏典を講義研究する僧衆集団の名からでており、それが民間に浸透するにつれて在来の信仰集団に講の名称を付けるようになった。さらに頼母子や無尽などの相互扶助の共同労働組織の結や模合にもなった。
・ 講は、大きく分けて、「経済的な結びつきである頼母子講・無尽講・模合講・結講など」と「宗教信仰的講」の2つがある。宗教信仰的講には、山の神、田の神、水神などの民俗宗教から自然発生した土着的な講や、観音講・薬師講・報恩講・不動講・題目講・地蔵講などの仏教講、霊社の信仰と結びつく伊勢・熊野・春日・八幡・金比羅・稲荷などの神道的な講や山岳信仰に基づく富士講・三峯講・御岳講・白山講などがある。庚申講や二十三夜講なども、宗教信仰的講に入る。
〜 HP:“富士詣り・富士講・富士塚” より。
《 茅の輪くぐり 》
・ 山開きの時に茅の輪くぐりが行われる。
・ 茅(チガヤ)を束ねてつくった大きな輪をくぐって身を祓い清めます。
・ くぐり方 → 左に1度、右に一度、最後に左にもう一度くぐって拝殿に向かう。 輪は3度くぐる。
・ この輪を8の字に3度くぐること(茅の輪くぐり)によって正月から6月までの半年間の悪疫を追い払う夏越しの大祓成就。
・ 輪から抜き取った茅は厄よけになるという。
・ 6月晦日の夏越の祓いにそれをくぐると、災厄からのがれることができ、福徳があるといわれています。
【富士塚の数】 記録にある富士塚の概数
地域 | 概数 |
---|---|
東京都内 | 100 |
都下 | 30 |
合計 | 130 |
千葉県 | 180 |
埼玉県 | 300 |
神奈川県 | 60 |
茨城県 | 50 |
栃木県 | 30 |
群馬県 | 60 |
山梨県 | 20 |
静岡県 | 2 |
長野県 | 40 |
総 計 | 870 |
富士塚に関する主な調査報告書
・ 三浦家吉『滅び行く富士講と富士塚』昭和50(1,975)。
・ 目黒区郷土研究会の会報「郷土目黒 第45集(平成13年)」に「東京の富士塚」掲載。都内23区内の富士塚の集大成。
・ 平野栄次著『富士信仰と富士講〈平野栄次著作集1〉』 掲載誌:『歴史研究』(平成17年)2,005年5月号。
・ 富士市立博物館『富士塚調査報告書』平成8年。
【 都区内の約10m以上の現存する富士塚、国の民俗文化財・都の有形民俗文化財の富士塚 】
都区内の10m以上の現存する富士塚 国の民俗文化財・都の有形民俗文化財の富士塚 | |||||
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順位 | 山 名 | 高さ概算 m | 築造地 | 所在地 | 築造年 ・ 移築年 |
1. | 品川富士 | 15 15 |
品川神社 | 明治2(1869)。1922年移築 | |
2. | 成子富士 | 12 12 |
成子天神社 | 新宿区西新宿 8-14-10 | 大正9(1920)。1920年天神山を改造 |
3. | 大泉富士 (中里富士) |
10 8 |
八坂神社 | 練馬区大泉町 1-19 | 明治6(1873)。 *都の有形民俗文化財 |
4. | 砂町富士 | 5 5 |
富賀岡八幡宮 | 江東区南砂 7-14-18 | 天保4(1833)。 1961年再構築移築 |
5. | 東大久保富士 | 10 4 |
西向天神社 | 新宿区新宿 6-21-1 | 天保13(1842)。1925年再築 |
(6) | 高田富士 (富塚富士) |
7 7 |
水稲荷神社 | 新宿区西早稲田 3−5−43 | 安永8年(1779年)。1965年(昭和65年)移築。 最古の富士塚。 |
(7) | 多摩川富士 (田園調布富士) |
15 0 |
多摩川浅間神社 | 大田区田園調布 1-55 | 文政12年(1829年)。 昭和47年(1972年)消滅 碑移築 現在碑のみ |
(8) | 目黒富士 | 12 0 |
上目黒氷川神社 | 目黒区大橋 2-16-21 | 文化9年(1812年)。 昭和18年(1943年)消滅・碑移設。 |
国−1 | 豊島長崎富士 (高松富士) |
8 8 |
富士浅間神社 | 豊島区高松 2-9-3 | 文久2年(1862)。 |
国−2 | 江古田富士 | 8 8 |
茅原浅間神社 | 練馬区小竹町 1-59-2 | 明治初年。 |
国−3 | 下谷坂本富士 | 5 5 |
小野照崎神社 | 台東区下谷 2-13-14 | 文政11年(1828年)。 |
都−1 | 千駄ヶ谷の富士 | 7 6 |
鳩森八幡神社 | 渋谷区千駄ヶ谷 1-1-24 | 寛政元年(1789年)。 大正13年(1924年再築 * 現存する都内最古の富士塚。 江戸八大富士の一つ |
※ 国 : 国の民俗文化財(有形)、 都 : 都の有形民俗文化財
※ 高さ概算 上欄=周辺からの高さ、 下段=富士塚自体の高さ。
・ 上記の富士塚を含めほとんどの富士塚は神社等の境内にあり、場所によっては、山頂への参拝が正月と、開山日の7月1日だけに制限している所もあります。
・ 東京の富士塚は、比較的現存する富士塚が多く、江戸庶民の浅間信仰の普及がうかがえますが、江戸の大火や関東大震災、第二次世界大戦の東京大空襲等により、消滅したものがあります。また人口密集地であり、高価な土地の有効活用等の理由で再開発の為、消滅・移築したものが多くあるようです。 文化財としての何らかの保護が必要と思われます。
※ 都内の富士塚巡りには、都区内のJR線1日フリー乗車券の「都区内パス」750円。または、都区内のJRおよび東京メトロ、都営地下鉄、都電各線1日フリー乗車券の「東京フリーキップ」1,590円がお徳で便利ですので毎回どちらかを利用して、集中的に訪問しました。
※ 記載内容は、インターネット上の情報を主に、現地の案内板の説明文、「富士見十三州 富士塚調査報告書」を参考しました。
富士塚の高さ等は、現地で確認した概算値です。
1.品川富士 (しながわふじ)
・ 所在地= 品川区北品川 3-7-15 品川神社内
・ 京浜急行線新馬場駅北口、北西約200m。第一京浜国道西側の標高12mの高台(芳葉岡)の東端にある。
・ 築造=明治2(1869)。1922年移築。
・ 塚の概算高さ≒15m。 周辺からの高さ≒15m
・ 旧称品川大明神、品川鎮守、通称「北の天王」。この一帯の「品川」という地名の由来である。准勅祭社。
・ 北品川宿の鎮守で、源頼朝が海上安全のため、安房国洲崎神社の天比理乃当スを勧請し、品川大明神と称したことを創祀とする。
・ 旅人が行き交う東海道が眼前にあることから、先代の宮司さんが考え出した 「富士」+「カエル」で「ふじかえる」=「無事帰る」と言うご利益のあるお守りがある。
【品川富士】
・ 品川神社富士塚は、明治2年(1869)に、北品川の丸嘉講(まるかこう)の約300人によって造られ、その後大正11年(1922)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものである。
・ 区指定有形文化財。
・ ミニチュアの富士山で、高さ約15m、1分かからずに頂上に着くことができる。
・ 丸嘉講では現在も毎年7月1日に「山開き行事」を行っている。
〜 フリー辞典等より
・ 京浜急行新馬場駅の北口改札口を左に出ると、第一京浜国道で、すぐ右方向に品川神社の鳥居が見えます。
・ 鳥居をくぐって石段の途中、中間の踊り場左側に、品川富士の入口の鳥居があり、1合目から緩い階段となり25段目で5合目となる。
・ 一旦水平になり、手前の急階段で、47段目で頂上に達しています。 水平道の先の方向には緩やかな階段がありますから、こちらから登った方が安全です。
・ 1〜9合目石が立てられている。
・ 頂上は約5m四方の平に整地され土で、富士塚では最大の広さと思われます。
・ 頂上からの東側の展望が開け、天王洲のビル群や、レインボーブリッジの一部分が見えます。 他の方角はビルなどに遮られ展望は望めません。 残念ながらほんものの富士山も今では見えなくなっています。
・ 海側の展望が非常に良い。他は高層ビル等で展望僅か。
・ 下山後、品川神社本殿への階段を登りきった左側に浅間神社があり、左横に、 「富士」+「カエル」で「ふじかえる」=「無事帰る」の石像がある。
・ 品川神社本殿への参拝も併せて行いましょう。
* 東日本大震災の影響で落石の危険があり、H23.3.11以降、立入禁止。
* H23.9月 大震災の影響による崩壊落石危険個所の復旧工事完了。 開放。
《 品川富士 訪問写真 》 −4 H25. 6.30 | ||
品川神社入口 | 富士塚入口付近より品川神社入口 | 富士塚山開き案内 |
茅の輪案内 | 茅の輪 | 〃 |
品川神社 本殿 | 品川富士塚 1合目 | 5合目 |
7合目 | 8合目 | 9合目 |
頂上 | 無事かえる | 〃 |
アジサイ満開 | ||
《 品川富士 訪問写真 》 −3 H23.10.16 | ||
品川神社(富士山)入り口 | 二合目 | 四合目 補強完了 |
六合目 補強完了 | 七合目 〃 | 八合目 〃 |
九合目 〃 | 頂上 : 土の地面がコンクリートに補強 | 〃 品川インターシティー方面 |
〃 | 〃 京浜急行電車 | 頂上より、第一京浜国道 |
頂上 | 下山口 | 夕方の頂上からの遠景 |
《 品川富士 訪問写真 》 −3 H23.7.3 | ||
品川神社入り口 | 〃 | 〃 大黒点 |
獅子 | 品川神社入り口正面 | 富士講入口:大震災の影響で崩壊落石危険立入禁止 |
富士講入口付近より | ||
《 品川富士 訪問写真 》 −2 H23.1.2 | ||
品川神社入り口の大黒様 | 富士塚山頂 | 登山道 |
七合目 石碑 | 山頂 | |
山頂より北東方向 :レインボーブリッジ | 品川インターシティーセンタービル街 | 〃 |
《 品川富士 訪問写真 》 −1 H20.正月
1.品川神社入口、中間左側が富士講入口 | 2.〃 | 3.品川富士入口 |
4.品川富士入口 | 5.登山道 入口 | 6.登山道、五合目〜山頂 |
7.7号目石 | 8.山頂 | 9.山頂 |
10.山頂より東方、天王洲ビル群、レインボーブリッジ。 手前京急電車、新馬場駅はすぐ右。 | 11.富士+カエルで「ふじかえる」=「無事帰る」 | 12.案内標識 |
13.浅間神社 | 14.品川神社 本殿 |
2.成子富士 (なるこふじ)
・ 所在地=新宿区西新宿 8-14-10 成子天神社内
⇒ JR新宿駅西口から北西方向約 1.0 km。青梅街道を西へ進み成子坂を下る前の「地下鉄西新宿駅」で北方へ右折、約150mで、成子神社の入口があり、本殿の北奥に成子富士がある。
・ 築造=大正9(1920)。もと天神山という小山があったものを大正9年に改造したもの。
・ 塚の概算高さ≒12m。 周辺からの高さ≒12m。 新宿区内では最大規模。
・ 大晦日から1月7日まで七福神巡りで登山が解禁になる。
・ 登山道周囲には高さが1m以上ある七福神の石像が七像建つ、新宿七福神の1つ。
・ 山頂には木花咲耶姫命の像がある。2011年3月11日の地震により北側斜面に落下し、浅間社前に立て直された。
・ 道の途中には七福神が祀られている。 普段は非公開で正月7日間のみ参拝・登攀できる
〜 フリー辞典等より >
《 成子富士 訪問写真 》 -3 H26.1.1
・ 3年ぶりの訪問。 正月7日間だけしか登れないため、正月登山としました。
・ 境内は分譲マンション・賃貸マンション・神社施設を建築中でしたが、ほぼ完成、塚以外は以前とは様変わり状態。
・ 山頂に鎮座されていた木花咲耶姫命の像が、平地に移されたままでしたので、残念。 元の位置に戻されることを期待しています。
成子天神社 富士塚案内、入口 | 手水 | 成子天神社 富士塚 |
牛 | 〃 | 〃 |
〃 | 〃 | 〃 |
〃 | 山頂の木花咲耶姫命の像 | 〃 |
〃 | 富士塚の案内板 | 成子天神社 |
《 成子富士 訪問写真 》 -2 H23.1.1
・ この成子富士塚は、大量の黒ボク(富士山の溶岩)が使用され、こじんまりしている割には険しい風貌で、登山道には七福神の石像と、冨士講の碑が建立。但し浅間神社の里宮、小御嶽石尊大権現の祠や石碑もない。
・ 登山口は2ケ所。表口には石の鳥居と木造の祠がある。
・ セメント整地の表登山道を登り、お中道に達し、更に階段を少し登ると再びお中道、更に階段の溶岩道を少し登ると頂上。
山頂部は「登山禁止」の札。自己責任で。
・ 頂上は約3畳の広さ。
・ 頂上に立つ白いキリストの像の様にも見える像は、富士山の鎮守「木花咲耶姫命(コノ ハナ サク ヤ ヒメ ノ ミコト)」。
成子天神社 富士塚案内、入口 | 富士塚入口 | 富士塚 |
山腹の七福神 | 〃 | 〃 |
〃 | 〃 | 〃 |
〃 | 山頂の木花咲耶姫命の像 | 〃 |
〃 | 富士塚の案内板 | 成子天神社 |
《 成子富士 訪問写真 》 -1 H20.1.19
1.成子天神社 | 2. 〃 | 3. 〃 |
4.富士塚の案内板 | 5.成子富士塚 | 6. 〃 |
7. 山腹の七福神 | 8.山頂の木花咲耶姫命の像 | 9.入口の鳥居 |
3.大泉富士 (おおいずみふじ)。 別名(中里富士)
・ 所在地=練馬区大泉町 1-19 八坂神社内
@ 都営大江戸線 光が丘駅、北西方向約2.5km。 A 西武池袋線大泉駅、北東方向約2.7km。
・ 築造=1,874年(明治7年)築造。 (1,873年以前の可能性も)
・ 都の有形民俗文化財。
・ 塚の概算高さ≒10m。 周辺からの高さ≒8m
・ 村民からは「中里の天王様」として親しまれていた。 〜 フリー辞典等より
・ 光が丘駅から、北西方向約2.5km。徒歩約30分、土支田二丁目バス停留所(土支田通り交差点)から北西方向、約400m。清水山憩いの森を過ぎ、白子川に架かる別荘橋を越え二つ目の右への道を曲がるとすぐに八坂神社入口に到着。
・ 八坂神社の南東側に立派な浅間神社の鳥居がある。
・ 頂上への登山道は四方にあり、メインの鳥居のある方向からの表登山道を進む。
・ より忠実に模造されたジグザグの登山道を登る。 途中道の両側に溶岩が置かれ、合目石も設置。
・ 山頂は直径約3m程の平の広さで、石祠がある。周囲の良好な展望が得られる。
・ 頂上までに約30基程の石造物がある。
《 大泉富士 訪問写真 》 H20.1.24
1.大泉富士入口の鳥居 | 2.〃 | 3.表登山口より山頂方向 |
4.案内板 | 5.表登山口より山頂方向 | 6.一合目 |
7.三合目付近より頂上方向 | 8.山頂より表登山口展望 | 9.剣ヶ峰 |
10.山頂の祠 | 11.本殿 |
4.砂町富士 (すなまちふじ)
・ 所在地=江東区南砂 7-14-18 富賀岡八幡宮内
⇒ 地下鉄東西線南砂町駅、東方約600m
・ 築造=1,723年(享保8年) 1,833年(天保4年)築造。 1,933年移設、1,961年再構築移築。
・ 塚の概算高さ≒10m ⇒ 再構築後 ≒5m。 周辺からの高さ≒10m 直径約18m
・ 石造り
・ 平成17年3月 区の有形民俗文化財指定 〜 フリー辞典等より
・ 地下鉄東西線南砂町駅から地上に出ると新砂あゆみ公園があり、当方へ東西線に沿って300m程東へ進み、葛西橋通りで左折、250m程で元八幡と呼ばれる富賀岡八幡宮に到着。
・ 富士塚は社殿の北裏にある。
・ こじんまりした古めかしい様相の富士塚でした。 苔や草の生えた狭い登山道を約40歩で頂上到着。
・ 落石の危険があるので、登頂の場合は自己責任で。
・ 7月1日 7:30より山開きがある。(平成20年7月1日行事なし)
《 砂町富士 訪問写真−2 》 H20.7.1
1.富賀岡八幡宮社殿 | 2.富士塚案内板 | 3.富士塚の講碑 |
4.〃 | 5.富士塚全景 | 6. 〃 黒ボク |
7.富士塚山頂より上り口方向への道 | 8. 〃 | 9.昭和37年移築当時の写真 |
《 砂町富士 訪問写真−1 》 H20.1.24
1.富賀岡八幡宮入口の鳥居 | 2.富賀岡八幡宮 | 3.右方 富士塚 |
4.案内板 | 5.富士塚全景 | 6. 〃 |
7.富士塚山頂より上り口方向への道 | 8.六合目石 | 9.八幡宮内の広場 |
5.東大久保富士 (ひがしおおくぼふじ)
・ 所在地=新宿区新宿 6-21-1 西向(にしむき)天神社境内。
⇒ JR新宿駅東口から北東方向約1.1km。
・ 築造=1842(天保13)年。 1,925年(大正14年)再築。
・ 塚の概算高さ≒2m。 周辺からの高さ≒10m。
・ 溶岩製。全山ボク石(溶岩)で固められている。
・ 自然の台地を利用したもの。関東大震災後改修再築。
・ 周囲には講中(丸谷講)の建てた碑が多数ある。
・ 西向天神社の境内、西南の一隅の崖の斜面に築かれている。
・ 境内の一角、崖に面した台地の突端に、高さ2m程の築山、富士塚。
〜 フリー辞典等より
・ JR新宿駅東口から靖国通りを進み、新宿五丁目交差点を左折、新宿六町目交差点を右折、文化センター通りを約200m進み天神小学校先を右折すると天神山児童遊園があり隣が西向天神社。
・ 都営大江戸線の東新宿駅から、約300mの抜弁天の隣。
・ 富士塚は天神山と呼ばれた小高い土地の西向きの斜面上に築造され、本殿の右側の公園隣にある。
・ 金網の高いフェンスで囲まれ、中に入れないのでフェンス越しに撮影。
・ 小じんまりした富士塚で、自然の台地の崖の上に構築されているので、崖下からは約10mの富士塚になる。
・ 大正14年(1925)再築の記念碑がある。
《 東大久保富士 訪問写真 》 2013 H24.7.2 | ||
西向天神社 | 本殿 | 神社 札 |
富士塚 全景 | 石碑 | |
石碑 | 登山道 | 八合目石 |
九合目石 | 山頂碑 | |
《 東大久保富士 訪問写真 》 2012 H24.7.2 | ||
富士塚全景 | 山頂付近 | 山頂 |
富士塚全景 | 〃 | 〃 (裏側) |
〃 (裏側) | ||
H24.8.28 | ||
西向天神社境内 | 天神社 | 鳥居 |
東大久保富士塚 | 東大久保富士塚 | 東大久保富士塚 |
《 東大久保富士 訪問写真 》 H20.1.24
1.西向天神社入口鳥居 | 2.西向天神社境内 | 3.富士塚全景 |
4.再構築記念碑 | 5.西向天神社 名盤 | 6.西向天神社本殿 |
(6) 高田富士 (たかだふじ) 別名 : 富塚富士
・ 所在地=東京都新宿区西早稲田3-5-43。 甘泉公園内、水稲荷神社(別名:高田稲荷神社)境内。
⇒ JR・西武新宿線・各高田馬場駅東方約0.9k。東西線高田馬場駅東方 約0.8k。 甘泉園の東南、標高18〜20mの台地にある。
・ 築造=1,779年(1,780年安永9年)完成の説)。 1,965年(昭和40年)移築。
・ 塚の概算高さ≒7m。 周辺からの高さ≒7m
・ 溶岩製。
・ 高田富士塚は富士講史上最古の富士塚として有名。
・ 安永8年(1779年)に、高田村の植木職・高田藤四郎が手がけた。
・ 高田富士は早稲田大学が昭和38〜9年に当時の水稲荷神社の土地を購入、校舎拡張等のため昭和40年に分解、消滅。 400m程西にある現在の甘泉園に神社と共に移築。
・ 入口門閉鎖。7月20日頃の2日間の「高田富士祭り」の時のみ登山可能。
〜 フリー辞典、新宿区観光協会ホームページ等より
《訪問記-2》 H21.7.19
・ “高田富士祭り”に合わせて訪問する。
・ JR高田馬場駅早稲田口を出て、早稲田通りを東方へ500m明治通り交差点を通過、約600m先の西早稲田交差点を左折、約200m坂道を下っていくと左側に団地がありすぐ先隣に水稲荷神社への階段がありここを登る。
・ 階段を登った参道には露店が並び、夜には、納涼盆踊りが行われるようです。
・ 約20m先右側が“高田富士”入口。大きな立て看板があり、写真等の資料が展示されていました。
・ 高田富士の登山口の左隣に小じんまりした浅間神社があり、入り組んだ登山道の途中には祠がありました。
・ 山頂は3畳位の広さで、鐘が二つあり、それぞれ指定された打ち方で打つと、今年一年間の幸せと安全が叶うそうです。
・ 下山口の麓には富士山の御胎内(洞窟)が再現されていました。
・ 登山道全体に保護柵として、工事足場用鉄パイプが張り巡らせれているのには安全のためとはいえ景観を損ねガッカリします。
1 | 1 | 1 |
《訪問記-1》 H20.2.20
・ JR高田馬場駅早稲田口を出て、早稲田通りを東方へ500m明治通り交差点を左折、約300mで高戸橋の新目白通り交差点を右折、約300m先の都電「面影橋」の先200m先右側奥の甘泉園公園に沿った坂道を登ると、水稲荷神社に到着。
・ 水稲荷神社の本殿裏には富塚古墳の立札お胎内のような洞穴がある。
・ 水稲荷神社内の「高田富士」は富塚古墳の東側。社務所の裏にあるようで、今回の写真撮影場所の山は「富塚」という古墳であったようです。再度訪問。
・ 都電早稲田下車、線路に沿って西方へ約100m戻り、左折、約100先の早稲田大学西早稲田ビル入口対面の西側階段を登る。
・ 右側の白色の平屋の建物の先を右折すると高田富士塚の入口。門閉鎖中。木造の浅間神社と右前方に高田富士が見える。
1.水稲荷神社 本殿 | 2.富塚古墳全景 | 3.祠 |
4.〃 | 5.富塚古墳 | 6.〃 祠 |
7.浅間神社の標識 | 8.登山口の高田富士塚の標識 | 9.高田富士塚全景 |
7.多摩川富士 (たまがわふじ) 別名 (田園調布富士)
・ 所在地 = 大田区田園調布 1-55 多摩川浅間神社境内
※ 昭和47年(1,972年)、浅間神社古墳であった「多摩川富士」があった場所に、浅間神社の社殿新築に伴って、消失してしまいましたので、現存する富士塚リストから除外となりますが、富士山を望める富士塚としては最高の展望であるので、あえてリストに残してみました。
⇒ 多摩川駅から南方向、約150m。南側へ徒歩3分。
・ 築造=1,829年
・ 塚の概算高さ≒0m。 周辺からの高さ≒15m
・ 浅間神社は霊峰富士山を信仰する神社で、祭神・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の木花とは桜の花のこと。
・ 多摩川浅間神社の西隣に隣接した、サクラで有名な広大な多摩川台公園がある。
・ 多摩川台公園多摩川台古墳群の亀の子山(かめのこやま)古墳がある。
・ 境内は南面の道路からは15m位の高さで,古墳の上に作られたとのこと。
・ 富士講の開祖「食行身禄」の碑がある。書は勝海舟の達筆。
・ 浅間神社の北は台地状の多摩川台が多摩川に沿って約1kmの多摩川台公園となっている。
・ 公園内には前方後円墳の亀甲山(かめのこやま)古墳と呼ばれる4世紀後半の遺跡がある。
・ 合計11基。(亀甲山古墳と宝莱山古墳と円墳8基、プラス神社境内にあった古墳1基)。現在は10基。
・ 10基の古墳以外に、世田谷区野毛まで続く計50基の古墳群を形成している。
・ 多摩川台古墳には縦107mを越える亀甲山古墳、この地域最古の前方後円墳の宝莢山古墳、その他に円墳が8基もある。ここは資料館もある。
・ この古墳は国指定史跡で、まだ発掘調査をされてない。
〜 フリー辞典等より
・ 東横線、多摩川線の多摩川駅下車、南方へ約100m進むと右側に浅間神社入口があり、鳥居のある階段を登っていくと神社に到着。
・ 頂上は広い境内になっており、大きく立派な本殿がある。
・ 富士塚は前述のとおり、消滅していますが、富士塚の証拠として、富士講中興の開祖「食行身禄の碑」が末社横に移設してありました。
・ 南側に面した広く整備された神社の展望広場からの眺望は「多摩川八景」に選ばれているとおりの絶景です
・ 好天なら丹沢や富士山も展望できます。特に冬の朝焼けの富士と、夕焼け時の富士は一見の価値があります。
・ 大きくS字を描いて流れる多摩川を眼下に、丹沢山塊、富士山などの大展望は最高です。
・ 隣の多摩川台公園は桜の公園としても有名で、シーズン中は賑わいます。
※ 多摩川浅間神社については、神社のHPを参照 ⇒ ⇒ 多摩川浅間神社
《 多摩川富士 訪問写真 》 2008 H20.正月
《 多摩川富士 訪問写真 》 2013 H25.6.25 | ||
---|---|---|
浅間神社 | 入口・中間 鳥居 | 浅間神社 全景 |
富士講の証 : 祖・食行身禄の碑 | 石碑 | 〃 |
入口鳥居柱の溶岩 | 大正12年の絵葉書 | 社殿 |
たけくらべ 石柱 | ||
《 多摩川富士 訪問写真 》 2008 H20.正月 | ||
多摩川浅間神社入口 | 〃 | 中間鳥居 |
社殿前 | 社殿 | 〃 |
前方、都内最高の大展望台 | 祖・食行身禄の碑 | 〃 |
多摩川台古墳群 | 亀の子山(かめのこやま)古墳 | 〃 案内板 |
(8)目黒富士 (めぐろふじ)
・ 所在地=目黒区大橋 2-16-21。 (上目黒氷川神社境内)
⇒ (東急田園都市線、池尻大橋駅、北東約400m)
・ 築造=1,812年。 1,977年改築。
@ 最初の目黒富士 : 《 目黒元富士 》。 別名、西富士または丸旦山。
⇒ 文化9年(1812)上目黒の富士講の人たちが、中目黒の「目切坂」に高さ12mもの富士塚を築いた。 塚には9つの曲がりがある登り道が造られていた。本物の富士山と同じように1合目から9号目まであるという意味で、頂上には富士浅間神社が祀られていた。
・ 明治以後、富士信仰が薄れて多くの富士塚が取り壊されていき、明治11年にお宮や鳥居が撤去され、丸旦マークの碑石は氷川神社(大橋2丁目)に移された。
・ さらに昭和18年(1,943年)、残っていた浅間神社や講の碑も大橋の氷川神社に移され、ここ上目黒の富士塚・目黒元富士は完全に姿を消した。
・ その後、頂上にあった石祠が小山の上にある氷川神社に移動され、昭和52年(1,977年)に氷川神社に登山道が作られてからこの山を目黒富士と呼ぶようになった。
A 二番目の目黒富士 : 《 目黒新富士 》。 別名、東富士、近藤富士。
⇒ 元富士構築の7年後、文政2年(1819年)に、択捉(えとろふ)島探検で知られる近藤重蔵が、三田村鎗ヶ崎(現在の中目黒2丁目)の邸内に築いたもの。近藤重蔵は邸内に三田用水を引き込んで滝を造るなど、趣味人であったらしく、富士の築山も信仰心からというより観賞のためと思われる。昭和34年まで残っていたが、今日では自然石の碑が残るだけ。
・ 塚の概算高さ≒0m。 周辺からの高さ≒15m。
〜 フリー辞典等より
・ 渋谷駅ハチ公前から道玄坂を登り、玉川通りに入り、旧山手通り、山手通りまで進むと右前方に氷川神社の森が見える。約1.6km。
・ 渋谷から東急田園都市線で一つ目の池尻大橋駅で下車、玉川通りを東へ約300m行くと、左側に氷川神社の入口に到着。
・ 目黒富士の登山道入口は、246号線に面した氷川神社入口の階段の手前(西方)にあるビルの非常階段。1階が交番。
・ 非常階段を半階登ると、1号目と思われる痛んだ木柱があり、右折すぐに2合目の標識、以後頂上まで号目表示柱が立っていました。
登山口から1合目までは14段、2合目=26段、5合目=34段、6合目=38段、7合目=40段、8合目=43段、9合目=47段、頂上=51段。
・ 氷川神社の境内に到着した所に「目黒富士頂上」の標柱があるだけで、途中石碑が一つあるのみ。富士塚の定義に当たる黒ボク等一切ありませんでした。
・ 頂上は隣のビルの4.5階と同じ高さ。
・ 東隣にある氷川神社入口からの直線の階段は、54段。段差は約20cm弱で約10m。
・ 本殿の右奥に丸旦マークの碑石があるだけで、塚は一切ありません。
・ 高台の上にある神社の境内を山頂に見立ててますが、周囲は高層ビルや首都高速の高架に遮られて展望はありません。
《 目黒富士 訪問写真 》 H20.1.24
1.側からの入口 | 2.山手通り側からの入口 | 3.丸旦マークの碑石 |
4.五合目標識 | 5.山頂付近の碑石 | 6.目黒富士塚頂上 |
7.氷川神社 本殿 | 8.浅間神社 | 9.百度石 |
浅間神社 | 丸旦マークの碑石 | 〃 |
国 1.豊島長崎富士 (としまながさきふじ) 別名:高松富士
・ 所在地=豊島区高松 2-9-3 。 長崎浅間神社境内
⇒ 地下鉄有楽町線千川駅、東方約600m。 池袋駅西口から国際興業バス「熊野町循環(池02)」「要町循環(池03)」「中丸町循環(池04)」約10分「富士神社入口」下車。
・ 築造=1,862年(文久2年)。
・ 塚の概算高さ≒8m。 周辺からの高さ≒8m 直径 21m
・ 溶岩製。
・ 昭和54年5月国の重要有形民俗文化財に指定。 〜 フリー辞典等より
・ 池袋から地下鉄有楽町線で二つ目の千川駅下車、地上に出て東方へ仙川彫刻公園前を通過、仙川一丁目のバス停のある富士神社通りを通過、T字路に突き当たり右折して約100m進むと左側に富士浅間神社に到着。分りにくかったので、通行人に3回聞きましたが神社の存在そのものを知らなかった。
・ 細い道の左側に浅間神社前の公園入口があり、小さな長崎浅間神社の本社隣に、豊島長崎富士富士塚が金網越しにありました。
・ 残念ながら富士浅間神社と富士塚はフェンスに囲まれて立入禁止、入れません。
・ 国指定の重要文化財だけあって、都内随一と思うほど立派な様相。 溶岩は頂上部のみ。石祠内は大日如来像。古墳を利用したものらしい。
・ 頂上には、頂上石祠、周囲には小御岳石尊や烏帽子岩、大権現碑が置かれ、石仏や講碑などが多くありました。
1.浅間神社の公園 | 2.豊島長崎富士富士塚全景 | 3.鳥居 |
4.講碑 | 5.〃 | 6.〃 |
7.山頂付近の石祠・石仏等 | 8.神社 |
国 2.江古田富士 (えこだふじ)
・ 所在地= 練馬区小竹町 1-59-2。 茅原浅間神社境内。
⇒ 西武池袋線江古田駅、北方約50m
・ 築造=天保10年(1,839年)(文化年間/1804〜1818年の間に築かれたとする説もあり)。
・ 1,924年修築。
「小竹丸祓講(こたけ まるはらいこう)」(江古田・中荒井・下練馬)により築造。
大正12年(1923年)の関東大震災によって崩壊、その後すぐに復旧され現在に至る。
・ 江古田富士は、江戸以来のかたちを残している3基のうちの一つ。
・ 塚の概算高さ≒8m。 周辺からの高さ≒8m 直径 約30m。
・ 『お山開き』=6月30日と7月1日の2日間。
・ 溶岩性。
・ 江古田富士は、江戸以来の造形を残している3基のうちの一つで、その歴史的な価値は非常に高い。(残りの2基は、台東区下谷の「坂本富士」と豊島区高松町の「高松富士」。)
・ 昭和54年5月21日国の有形重要民俗文化財に指定。
〜 フリー辞典等より
・ 西武池袋線の江古田駅下車、ホームの北隣が茅原浅間神社の入口。
・ 富士塚は本殿の右奥。 柵で囲まれ、中に入れません。 正月三ヶ日と、山開き(7月1日)と9月第二土日のみ入山開放。
・ 本殿の右奥から登山道が大きくジグを切って造られている。
・ 1合目から8合目まで雷光状の登山道、頂上付近は廻り道。
・ 高さは約8mで、苔むした溶岩に覆われた山容は古めかしく威風堂々としている。
・ 山頂には、天保10年(1839年)に設置された石の祠があり、その他にも、「経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽(こみたけ)神社」の石碑、「大天狗・烏天狗・神猿」の石像や、各種の碑などがある。
《 江古田富士 訪問写真−3 》 H26.7.1 | ||
---|---|---|
茅原浅間神社の入口 | 大ケヤキ | 〃 高さ27m、幹の太さ3.1m |
手水 | 本殿 | 〃 |
名板 | 富士塚説明板 | 〃 |
鳥居 | 1合目 「神猿」 | 4合目 |
5合目 | 6合目 | 7合目 |
8合目 | 9合目 | 頂上 |
山頂の祠 | 登山道 | 猿の石像.&「道行」の石板、講碑 |
大山不動尊像と禊の滝 | 案内板 | |
《 江古田富士 訪問写真−2 》 H20.7.1 | ||
1.茅原浅間神社の入口 | 2.案内板 | 3.本殿 |
4.一合目 | 5.本殿 | 6.登頂可能期間案内板 |
7.鳥居 | 8.「道行」の石板、講碑 | 9.富士塚全景 |
10.頂上 | 11.頂上より登山口方向 | 12.烏天狗の石像 |
13.「身禄尊祠碑」 | 14.1合目 「神猿」 |
《 江古田富士 訪問写真−1 》 H20.1.24
1.茅原浅間神社の入口 | 2.富士塚全景 | 3.本殿 |
4.一合目 | 5.本殿 |
国 3.下谷坂本富士 (したやさかもとふじ)
・ 所在地=台東区下谷 2-13-14。 小野照崎神社境内。
⇒ 地下鉄日比谷線入谷駅、北西方向 約200m。 JR 鴬谷東方 約400m。
・ 築造=1,828年(文久11年)。
・ 小野照崎神社の境内に築造されている。文政11年(1828)の築造といわれ、江戸時代の富士塚独特の円墳型で、ボク石を積み上げてある。
文政11年(1828)、山本善光は先達となり、大阪屋勘助は講元となった二人は協議して富士塚建設を計画し、各講や諸人の賛助を得て、小野照崎神社と隣接の大阪屋勘助の邸内の一部にまたがって、築山を建設した。
・ 塚の概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m 直径 16m
・ 溶岩製。
・ 塚の概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m
・ 東京では保存もよく、珍しいものだとして昭和54年(1979)に国の重要有形民俗文化財の指定を受けている。
・ 青面金剛を祀る、小野照崎神社境内の庚申塚。 稲荷社もある。
・ 通常は柵で閉鎖され、正月 1/1及び山開きの6/30,7/1のみ開放(10〜20時)。7月1日には地元の町会が神社と協力して山開き行事を行う。
・ 富士山そっくりの形に築き上げ、ぐるぐる廻りながら高さ約5mの頂上まで、一合目から八合目と細い道を登っていくことができる
〜 フリー辞典等より
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・ JR上野駅、浅草口を出て昭和通りを北上、言問通りとの交差点を過ぎ、地下鉄日比谷線入谷駅出入り口先で、左折後右側にある小野照崎神社に到着。
・ 富士塚は本殿の右隣。柵の中。
・ 九十九折りの登山道が見える。石碑や石祠等はありませんでした。
・ 石灯籠・二猿などが見られる。
・ 三峰神社が併設。
《 下谷坂本富士 訪問写真−5 》 2013 H25.7.1 ・ 鴬谷駅下車、約5分で到着。 “山開き”は、10時からでした。 ・ “茅の輪”を嗅いでみると、新しい畳表のような良い香りでした。 |
||
小野照崎神社 | 山開き | 神社本殿 |
茅の輪 | 茅の輪の説明 | 七夕飾り 小野照崎神社 神社本殿 |
となえことば | 富士塚全景 | |
富士塚全景 | 〃 | 〃 祠 |
石碑 | 灯篭 | 小野照崎神社鳥居 |
《 下谷坂本富士 訪問写真−4 》 2013 H25.5.22 | ||
小野照崎神社鳥居 | 小野照崎神社 神社本殿 | 富士塚説明 |
富士塚、浅間神社の石柱 | 富士塚 全景 | 富士塚 上部 |
富士塚 全景 | 三合目 | 五合目 |
小野照崎神社鳥居 | 小野照崎神社 札 | 併設の三峰神社 |
《 下谷坂本富士 訪問写真−3 》 2011 H23.1.1
小野照崎神社 | 富士塚 | 富士塚 全景 |
富士塚 | 富士塚 | 〃 |
《 下谷坂本富士 訪問写真−2 》 H20.7.1
1.小野照崎神社鳥居 | 2.茅の輪 | 3.茅の輪の説明 |
4.小野照崎神社 神社本殿 | 5. 〃 | 6.赤目の猿 |
7.富士塚入口 | 8. 富士塚全景 | 9. 山頂 |
10. 富士塚全景 |
《 下谷坂本富士 訪問写真−1 》 H20.1.19
1.小野照崎神社鳥居 | 2.小野照崎神社鳥居 | 3.併設の三峰神社 |
4.小野照崎神社 神社本殿 | 5. 〃 | 6.神社標柱と門、閉鎖中 |
7.富士塚全景 | 8. 〃 | 9. 二合目石 |
庚申塚 |
都 1.千駄ヶ谷富士 (せんだがやふじ)
・ 所在地= 渋谷区千駄ヶ谷 1-1-24。 鳩森八幡神社境内。
⇒ JR千駄ヶ谷駅、南方約400m。
・ 築造=1,789年(寛政元年)。(1573〜1591年に築造されていた可能性もあり)。 1,924年再構築。
・ 塚の概算高さ≒6m。 周辺からの高さ≒6m 直径 約25m。
・ 円墳形に土を盛り上げ、ボク石は頂上近くのみ配し、山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。溶岩製。
・ 現存する都内最古の富士塚。江戸八大富士の一つ。
・ 頂上付近に富士山の溶岩を配している。 〜 フリー辞典等より
・ JR千駄ヶ谷駅南口を出て、東京体育館を左前方に見ながら約300m程南下すると鳩森神社に到着。
・ 富士塚は境内の東端にあり、見事な姿をしている。
・ 本殿に向かって左側。石橋を渡り、石段を登ると石祠がある。
・ 頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。
・ 七合目には洞窟が作られ、その中には身禄像が安置されている。頂上への道は2ケ所あり、中道もある。
・ 円墳形に土を盛り上げ、ボク石は頂上近くのみ配し、山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。
・ 登山口の階段から27歩で山頂。頂上には奥宮を安置し、山麓の向かって右側に木造の里宮の建物がある。
・ JR千駄ヶ谷駅南口からはニューヨークの摩天楼を思わせる特徴的デザインの「NTTドコモ代々木ビル」が聳え立っているのが見える。 ミッドタウンタワー、東京都庁第一本庁舎に次いで都内では3番目の高さを誇る。頂上の尖塔は、建物の形状から建設後に撤去ができなくなったために残されたクレーンだそうです。
《 千駄ヶ谷富士 訪問写真−4 》 H26.1.1
東京体育館 | 案内板 | 富士塚 登山道 |
記念碑 | 鳥居 | 石碑 |
富士塚 登山道 | 富士塚 山頂の祠 | 山頂から稲荷神社方向 |
中腹から稲荷神社方向 | 将棋堂 |
《 千駄ヶ谷富士 訪問写真−3 》 H23.1.1
東京体育館 | 案内板 | 〃 |
〃 | 富士塚 登山道 | 富士塚 |
登山道途中の像 | 山頂 | 山頂方向 |
稲荷 |
《 千駄ヶ谷富士 訪問写真−2 》 H20.7.1
1.登山口より全景 | 2.〃 | 3.案内板 |
4.登山口先 | 5.山頂より登山口方向 | 6. 洞窟 |
《 千駄ヶ谷富士 訪問写真−1 》 H20.1.24
1.東京都体育館 | 2.鳩森八幡神社 | 3. |
4.案内板 | 5.登山口より全景 | 6. 〃 |
7.〃 | 8.碑 | 9.洞窟 |
10.中腹より登山口方向 | 11.中腹より山頂方向 | 12.登山口より全景 |
13.登山口より全景 | 14.登山口より全景 | 15.洞窟 |
16.鳩森八幡神社本殿 | 17.將棋堂 | 18.NTTドコモ代々木ビル:240m |
※ 【 富士山の噴火記録 】
・ 富士山は地球の歴史から見れば、活火山で、宝永噴火から3百年しか経っていません。火山にとっては一瞬の休息にすぎません。
・ 富士山は最近10万年で急速に大きくなったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山であり、その下に約70万年前から活動していた小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から約1万年前に噴火した古富士火山が存在する。
・ 古記録によれば新富士火山の噴火は781年以後17回記録されている。噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に12回の噴火記録がある。また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、例えば1083年から1511年まで400年以上噴火の記録がない。また1707年の宝永大噴火以後も約300年間噴火していない。
〜 フリー辞典より
@ 小御岳火山
⇒ 10万年以上前 --- 噴火により小御岳が形成される。約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳火山(こみたけ)が活動を始めた。
A 古富士火山
⇒ 2万年前 --- 噴火により古富士山が形成される。約10万年前から新たな活動時期に入った。この時期を古富士火山と呼ぶ。
B 新富士山
⇒ 古富士火山の溶岩流のあと約4,000年間平穏であったが、約5,000年前から新しい活動時期に入った。
紀元前1千年前 --- 噴火により新富士山が形成される。
C 縄文時代後期に4回の爆発的噴火
延暦大噴火 800年、 8002年 火山灰等により東海道路の相模国足柄路一時閉鎖、筥荷(箱根)路を代用。
貞観大噴火 864年 溶岩により大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断。 「青木ヶ原溶岩」が形成される。
宝永大噴火 1,707年 江戸に大量の火山灰を降らせる。 以後富士山は噴火していない
⇒ 紀元前5百年〜3百年 --- 噴火あり。 ・・・この噴火により国が荒れ果てたことから、代11代垂仁天皇は木花咲耶姫を富士山の麓に祭って山の霊を鎮めた(富士山元宮浅間神社の祭神は木花咲耶姫)。
〜 フリー辞典等より
V.都 内 の 富 士 塚 - §2
* 鉄砲州F,音羽F,駒込F,田端F, 等
]].富士塚関連 HPリンク集