V.都 内 の 富 士 塚 §-2 《 (6m程度の富士塚) 》 |
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1. | 鉄砲州富士 | 6. | 飯塚富士 | 11. | 篠崎富士 |
2. | 音羽富士 | 7. | 下練馬富士 | ||
3. | 駒込富士 | 8. | 下赤塚富士 | ||
4. | 田端富士 | 9. | 池袋富士 | ||
5. | 十条富士 | 10. | 白山富士 | ||
U.都 内 の 富 士 塚 §-1 (10m程度の富士塚) | |||||
W.都 内 の 富 士 塚 §-3 (4m程度以下の富士塚) |
※ 8m以上及び民族文化財に指定されている富士塚は、 「U.都内の富士塚§-1」 へ
⇒ ⇒ 都内の富士塚 豊島長崎富士 江古田富士 下谷坂本富士 千駄ヶ谷富士 品川富士 等
※ 約4m以下の富士塚は、W.都内の富士塚 §-3 (その他の富士塚)へ
都区内で、約8m〜4mの高さの現存する富士塚 | |||||
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順位 | 山 名 | 高さ 概算 m |
築造地 | 所在地 | 築造年 |
1. | 鉄砲州富士 | 6 6 |
鉄砲洲稲荷神社 | 寛政2年(1790年)。 明治3年(1870)現在地へ移築。明治7年(1874)再築。 明治18年(1885)、昭和3年(1928)、同11年(1936)計3回境内を転々と移築。 |
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2. | 音羽富士 | 6 6 |
護国寺 | 文京区大塚 5-40-1 | 文化14年(1817年)。 明治18年(1885年)に現在地に移築され、昭和64年(1989年)修築。 |
3. | 駒込富士 | 6 6 |
駒込富士神社 | 文京区本駒込 5-7-20 | 延文年間?(1356〜61) 詳細不明。 寛永六年(1629年)古墳を改造。 |
4. | 十条富士 | 6 6 |
富士神社 | 北区中十条 2-14-18 | 文化11年(1814年)築造。 明治14年(1881)整備、 大正元年(1912年)再築。 |
5. | 田端富士 | 4 2 |
田端八幡神社 | 北区田端 2-7-2 | 大正14年(1925年) 移築。 昭和29年(1954年)修築。 |
6. | 飯塚富士 | 6 6 |
富士神社 | 葛飾区南水元 2-1-1 | 明治12年(1879年)築造。 |
7. | 下練馬富士 | 6 6 |
浅間神社 | 練馬区北町 2-41-2 | 江戸時代後期。 1872年(明治5年)再築、 1927年修築、1951年改築 |
8. | 下赤塚富士 | 5 5 |
諏訪神社 | 板橋区大門 5-5 | 1882年(明治15年)再築。 |
9. | 池袋富士 | 5 5 |
氷川神社 | 豊島区池袋本町 3-14-1 | 築造年は不明。1912年(明治45年)6月再築。 |
10. | 白山富士 | 4 4 |
白山神社 | 文京区白山 5-31-26 | 1816年(文化13年)再築。 |
11. | 篠崎富士 | 5 5 |
浅間神社 | 江戸川区上篠崎 1-22 | 1925年 |
※ 高さ概算 上欄=周辺からの高さ、 下段=富士塚自体の高さ。
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富士塚 §1 富士講の説明 一部再録
⇒ ⇒
《 富士塚の定義・アイテム 》
* 「富士塚」の厳密な定義はないようですが、凡そ下記のように解釈してよいと思います。
【 富士塚の定義】 下記の各要素を満たしたもの
@ 富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山で、表面に黒ボク(富士山から運ばれた溶岩)を張り付けたもの。
A 塚の部分に浅間神社または同等の祠・碑を祀ったもの。
B 登山道を設けて登拝できるようにし、登山道に沿って小御嶽碑、合目石、烏帽子岩、御胎内その他の付属物のいずれかを設けたもの。
* 下記の物があること。
1.富士講信者が山を築造し、周りを黒ボク石で固めた物。
2.登山道を作り、合目石を建ててあるもの。
3.山頂に浅間神社などの祠・石碑を祀ったもの。
4.古御岳神社、烏帽子岩、御胎内その他の付属物が設置されている。
* 富士塚には4つのアイテムがある。
@ 頂上に奥宮がある。
A 中腹(5合目)の右側には小御嶽神社。祠または石碑で。
B 7合5勺に左側に烏帽子岩をつける。 烏帽子岩の文字の石碑、又は烏帽子の形をした岩。もう1つは食行身禄の像。
C 山裾、右側に胎内として洞窟をつくる。
《 富士山詣 》
・ 奈良時代、富士山は、山自体をご神体とする山岳信仰の対象であった。
・ 富士山を開いたのは、「日本霊異記」によれば役小角・役行者(えんのおづね)とされている。
・ 平安時代になると、富士山を修行の場として役小角を開祖とする修験道者が活動し、富士山信仰が始まったとされる。この時代の信仰の対象は「浅間大神(あさまのおおかみ)」であり、その後、「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」も祭られている。
・ 富士山のミニチュアは本物の富士山と同じに造られており、神社だけでなく、お中道もあって、簡単に本ものと同じ体験ができるようになっているので、ご利益もある程度同様に期待されている。
《 富士講の開祖 》
@ 伊藤食行身禄:「食行身禄」(じきぎょうみろく)。
⇒ 富士講中興の祖と言われ、享保十八(1733)年の夏に富士山八合目烏帽子岩(富士講の聖地)で31日間断食行をしてそのまま入定した。 断食の行をしたので、「食行」と言われる。 「小御嶽石尊(こみたけせきそん)大権現」の祠があれば、食行の入定場所を指し示す。(烏帽子岩は、富士山吉田口の7合目の元祖室に接して現在も残っている)。
1733年、幕府の政策に抗議して富士・烏帽子岩で入定・ミイラ化。亡骸は、駒込の海蔵寺に埋葬。その思想の根底には、「身を禄にする」という名のとおり、町人道徳観が見られる。食行の死後、江戸に富士講四百余(俗に八百八講)といわれるほど、爆発的に流行。
A 藤原角行:「角行」(かくぎょう、 1541〜 1646年(1,648年?))(室町後期〜江戸初期)。
⇒ 4寸5分の角材の上で1000日間の修行をしたので、「かくぎょう」と言われる。 100歳以上の長寿だったので甚だ謎が多い。
富士の人穴で修行。
B 日行青山:「高田藤四郎)」
⇒ 食行33回忌に、富士塚第1号高田富士をつくった中心人物。 1779年完成(江戸後期)。
《 富士禅定(ふじぜんじょう) 》
・ 富士山上で修行すること。
・ 江戸時代、先達に導かれて、富士行者の服装を調え、3日または7日の精進潔斎の富士垢離を行い、登頂する富士講の信仰行事であった。
《 最初の富士塚 》
・ 富士塚の第1号は、安永八(1779)年、高田の地(現在の早稲由大学商学部)に富士講(富士山を神として信仰する民間信仰の団体)の行者によって築造された。 〜 フリー辞典等より。
《 富士講 》
・ 富士山を信仰する集団に富士講がある。九州長崎出身の長谷川(藤原)角行が、富士講の開祖といわれ、富士山の人穴で永禄元年(1558)に、四寸角の上に爪先立って千日間の立ち行の末に悟りを開いたとされ、さらに、富士登山百数十回、断食三百日など数々の難行苦行を行い、106歳で人穴で入寂したと伝えられている。
・ 富士山に行くことのできない人たちは、陰暦6月1日の前後、江戸の浅草・駒込・高田など各地に分祀した富士権現社に参詣し、境内の富士塚に登って代償とした。
・ 富士塚は、安永9年(1780)行者の藤四朗が高さ五間の富士山の雛型を造り、「富士山に登ったのと、同じご利益を授けていただけるように」と祈念したのが始まりといわれており、これが江戸に流行して、多いときには50カ所以上の富士塚があったとされる。現在でも都内には、10カ所程度残っている。富士塚は、神社の境内だけでなく、寺院や民家の庭先などにも造られていたが現在ではほとんど神社の境内に残るのみである。
・ 富士詣りの富士山本宮以外のルートには、御師の宿坊が現在でも数軒ある。御師たちは御師団と呼ばれる組合を組織し、地元の浅間神社に仕える神職を持ち回りで選出する。御師は、富士講を含めた富士登山者を宿坊の自宅に泊め、登山にあたっての修祓などの宗教的・事務的手続きを行ったり、強力の世話など行う。また、富士講の先達に、富士講の教義や行名と呼ばれる行者としての名前などを金銭を貰って与えたり、富士講の本尊である身抜や教典の類を発行した。
・ 富士講は、山頂での参拝のあと、富士山本宮、人穴(富士宮市)、白糸の滝、道了尊(南足柄市)や大山不動(伊勢原市)に詣で、箱根などへも足を伸ばし楽しんで帰った。
・ 講の起源は、仏典を講義研究する僧衆集団の名からでており、それが民間に浸透するにつれて在来の信仰集団に講の名称を付けるようになった。さらに頼母子や無尽などの相互扶助の共同労働組織の結や模合にもなった。
・ 講は、大きく分けて、「経済的な結びつきである頼母子講・無尽講・模合講・結講など」と「宗教信仰的講」の2つがある。宗教信仰的講には、山の神、田の神、水神などの民俗宗教から自然発生した土着的な講や、観音講・薬師講・報恩講・不動講・題目講・地蔵講などの仏教講、霊社の信仰と結びつく伊勢・熊野・春日・八幡・金比羅・稲荷などの神道的な講や山岳信仰に基づく富士講・三峯講・御岳講・白山講などがある。庚申講や二十三夜講なども、宗教信仰的講に入る。
〜 HP:“富士詣り・富士講・富士塚” より。
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1.鉄砲州富士 (てっぽうしゅうふじ)
・ 所在地= 中央区湊 1-6-7 築地鉄砲洲稲荷神社 境内
⇒ JR京葉線八丁堀駅、南方≒300m。
・ 築造=1790(寛政2)年。 明治3年(1870)現在地へ移築。明治7年(1874)4月に富士塚は再築。 明治18年(1885)、昭和3年(1928)、同11年(1936)計3回境内を転々と移築。
・ 塚の概算高さ≒6m。 周辺からの高さ≒6m
・ JR八丁堀駅の東南300mの地点にある中央区に残った唯一の富士塚。
・ 中央区区民文化財に指定。
・ 昔の富士塚は「江戸名所図絵」にも描かれた有名なもの。広重は「絵本江戸土産」に鉄砲州稲荷の富士塚を描いている。
・ 最初の富士塚は現在地より北へ100mほど離れた隅田川河口に面した旧社地(亀島川に近い湊1丁目交差点の北側)にあり、、「鉄砲州の浪よけイナリ」ともいわれ、富士塚は朱塗りの回廊の向こうに聳立し、稲荷社よりもはるかに高かった。
《 鉄砲洲稲荷神社 》
鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。神社は、寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東橋詰に遷りましたが、明治元年(1868)現在地に移転し、今日に至っています。関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内南西隅に神輿庫が設けられています。
また西北隅に富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図絵」にも描かれた有名なものでした。境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残をとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
〜 中央区教育委員会 案内版等より
・ JR京葉線八丁堀駅、B3口から地上に出て100m東へ進み、亀島川に架かる高橋手前を右折、約200m先右側にある鉄砲州稲荷に到着。
・ 富士塚は神社本殿の右奥(北西方向)にある。
・ 北面・西面は壁に囲まれ、社殿の横の塀と塀で区切られた隅に、黒ボク石で4mほど積み上げた、正面だけしかない小じんまりしたシャープな塚。 高さは約6m。
・ 一番手前に記念の石碑、右側には御胎内がありました。
・ 頂上までかなり急な道があり、山頂には石の祠があります。
《 鉄砲州富士 訪問写真-2 》 H23.6.24
《 鉄砲州富士 訪問写真-1 》 H20.2.28
1.神社入口 | 2.神社本殿 | 3.富士塚 全景 |
4.山頂の祠 | 5.中腹の碑、 巨大な溶岩 | 6.山頂横の小御嶽神社 |
7.塚全景 | 8.本堂 | 9. |
2.音羽富士 (おとわふじ)
・ 所在地=文京区大塚5-40-1 護国寺 境内
⇒ 地下鉄有楽町線2番口から地上に出てると、護国寺前。 護国寺駅・北方約150m。
・ 築造=1817(文化14)年。 1885年に現在地に移築され、昭和64年(1989年)修築。
・ 塚の概算高さ≒6m。 周辺からの高さ≒6m。
・ 大晦日から1月7日まで七福神巡りで登山が解禁になる。
・ 江戸時代の音羽富士は本堂のはるか西にあった。
・ 護国寺の台地の末端の傾斜を利用して築造された富士塚。
《 護国寺 》
・ 護国寺(ごこくじ)は、文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺院。山号は神齢山。詳しくは神齢山悉地院護国寺と称する。
・ 重要文化財の本堂、滋賀の園城寺(三井寺)から移築された書院を持つ月光殿など、多くの文化財を有する。また、大隈重信ら多くの著名人の墓所としても知られる。
・ 徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681年)に創建された。開山は亮賢。本尊は如意輪観音。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。
・ 初めは、桂昌院の祈願寺であったが、後には将軍家の武運長久を祈る祈願寺となり、寺領も1200石の大寺となった。桂昌院の護国寺参詣は30数度にも及び、多くは将軍綱吉も同道した。指定文化財も多く、国重要文化財7件、都指定2件、区指定18件に及んでいる。真言宗別格本山豊山派である。
〜 文京区教育委員会 案内版等より
・ 護国寺の仁王門を入った突き当たりの階段手前を右側へ進むと、民謡の碑があり、その先左側「富士道」の石碑がある。石橋を渡り、鳥居をくぐると富士塚の登山口。
・ 登山道は途中で分かれ、緩やかに電光状に巻いており、3本が頂上まで続いている。
・ 登山道に入るとすぐに、「一合目」と書かれた石の標柱があり、傾斜面に黒ボク石や庭石、登山道の両側や山裾などには数多くの石碑や、七福神の石像(新宿七福神の1つ)が建てられている。
・ 頂上付近には溶岩があり、頂上には石祠と浅間神社の標柱がある。
・ 頂上まで約56段。頂上の広さは、約2×4m。
・ 正面側の山肌にも多数の石碑がある。塚の向かって右側には、石を積み上げて造った木花咲耶姫命の陰刻像を彫った碑のある胎内風洞窟がある。
・ 小御嶽を表す「小御嶽石尊大権現・大天狗・小天狗」と刻んだ自然石の碑が洞窟の斜め右上にあり、小天狗の像を陰刻した石碑がある。
・ 富士塚訪問の後、護国寺を参拝。 境内には立派な松が育っていました。
・ 神仏分離によってお寺の境内にある珍しい富士塚。
《 音羽富士 訪問写真-2 》 H23.6.24
《 音羽富士 訪問写真-1 》 H20.2.28
護国寺の仁王門 | 〃 | 〃 |
富士塚入口 | 一合目 | 石碑 |
山頂の祠と石柱 | 山頂より登山口 | |
1億5千万年前の桂化木 |
3.駒込富士 (こまごめふじ)。
・ 所在地=東京都文京区本駒込5-7-20 富士神社 境内
⇒ JR駒込駅・南東方向約600m。
・ 築造=延文年間?(1356〜61) 詳細不明。 1629年古墳を改造。
・ 塚の概算高さ≒7m。 周辺からの高さ≒7m
・ 社伝に寄れば延文年間(1356〜61)には、富士塚があり、一説によると前方後円の古墳ともいわれている。
・ 全国古墳編年集成によれば、500年代末の前方後円墳とされている。
・ 延文二年(1357)頃には現在地に富士塚があり、延文二年を記した石碑があったが戦災で消失してる。
・ 模造の富士山と見立てて、登山道も富士の溶岩で造られた跡が石段の右側に残っている。
・ 富士神社はもと、旧本郷村にあり、天正元年(一五七三)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
・ 寛永六年(一六二九)加賀藩前田侯が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大字構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
・ 本富士山は古墳跡で,1400年以前より「富士山」と呼ばれていたそうで、1629年に山の上に現在の東京大学のあたりにあった「本郷本富士」を移築した形で神社が建立。
・ 富士神社の祭神は木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
・ 山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人たちは江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さんL」が多数出来た。文京区内では、「駒込のお富士さん」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。
・ 「駒込は一富士二鷹三茄子」と言う江戸時代の川柳があるらしい。その富士がこの富士神社のことだそうです。
・ 昔は左側の急な石段の手すりは絶好の滑り台で一番上から滑り降りれば「一人前」とされていたそうですが、今は昔話。
・ 山開きの6/30と7/1の2日間しか売られない麦藁で蛇の形に作った魔除けの麦藁蛇や麦落雁を売るテントがあるようです。
〜 文京区教育委員会等より
・ JR駒込駅南口を左(六義園)方向へ本郷通りを南下、不忍通りを過ぎ、二つ目の信号がある富士神社入口交差点を左折、すぐ左側が富士神社。駅から約800m。
・ 正面に23段の急な階段がありその先に鳥居と神社の本殿がある。
・ 富士塚は、この階段の両側一帯の古墳跡で、赤ペンキで書かれた石碑が多数林立している。
・ 頂上は神社の境内。山頂には大きな社殿がありヒバで作った「神龍」のお守りを売っています。
・ 急な階段の他に、境内の東側には緩い坂道がありました。
・ 右側の富士塚には、濃いピンク色の五部咲きの(河津桜?)が1本あり、メジロや他の小鳥が密を吸いに飛んできました。
《 駒込富士 訪問写真-2 》 H26.7.1 |
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富士神社 | 正面階段と富士塚全景 | 階段左側の富士塚 |
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階段左側の富士塚 | 本殿 | 七夕飾り |
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神社側面 |
《 駒込富士 訪問写真-1 》 H20.2.28
正面階段と富士塚全景 | 階段右側の富士塚 | 石碑 |
階段左側の富士塚 | 富士神社の案内板 | (河津桜)とメジロ |
4.田端富士 (たばたふじ)
・ 所在地=東京都北区田端2-7-2 田端八幡神社 境内。
⇒ JR田端駅・南西方約300m。
・ 築造= 1925(大正14)年 移築。 昭和29年(1954年)修築。
・ 塚の概算高さ≒2m 周辺からの高さ≒4m
・ 境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年二月二十日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われている。
・ 八幡神社は何度も焼失、再建を繰り返している。現在の本殿は、平成四年(1992)に新築された。
・ 富士塚は参道の途中の右側の石段を登った所にある。
・ 大正14年(1,925年)、山手線工事により田端駅南口の東南の台地にあった塚を現在地に移築。
〜 北区教育委員会 案内版等より
・ JR田端駅北口下車、南西(左)方向へ458号線を約400m進み、上田端バス停のある交差点で右折、すぐに八幡神社に到着。
・ 道路からかなり長い石畳の参道が続く。
・ 神社本殿への正面の階段の右側に、緩やかな階段があり、ここを登る。途中右へ分岐、21段で富士塚の頂上。 神社へは33段目で境内に到着。
・ 移築・修築された富士塚の為非常に小じんまりした塚。 塚入口に鳥居と田端山元講の石碑、山頂に祠がある。
《 田端富士 訪問写真-2 》 H23.6.24
《 田端富士 訪問写真-1 》 H20.2.28
正面は八幡神社、右が富士塚。 | 階段途中右折、富士塚入口 | 富士塚全景 |
田端山元講の石碑 | 八幡神社 | 八幡神社の案内板 |
5.十条富士 (じゅうじょうふじ)
・ 所在地= 東京都北区中十条2-14-18 富士神社 境内。
⇒ JR東十条駅・西方 約250m。 JR十条駅・東方 約500m。
・ 築造=1814年築造。 明治14年(1881)整備、1912年再築。
・ 塚の概算高さ≒6m 周辺からの高さ≒6m
・ 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。銘文によれば遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
・ 鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳(こみたけ)神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
・ 冨士神社は都内七冨士巡りの1つ(十条冨士)としても知られる神社です。毎年6月30日と7月1日の「十条冨士神社大祭」は、「お冨士さん」と呼ばれ、たくさんの人や露天でにぎわいます。
・ 富士神社は十条富士とも呼ばれている。6月30日の宵宮と7月1日の山開きの祭礼が催される。
〜 北区教育委員会 案内版等より
・ JR京浜東北線、東十条駅南口下車、西(右)方向へ約150m、中十条三丁目交差点で右折、約100mで左側にある富士塚に到着。
・ JR埼京線、十条駅北口下車の場合は、北(右)方向へ約50m、十条中央商店街を約300m進み、中十条三丁目交差点で左折、約100mで左側にある富士塚に到着。
・ 道路に面した所にある。
・ 正面の階段を挟んで両側に、石碑がビッシリと並んでいました。
・ 高さ約6m程、30段階段を登ると山頂。
・ 頂上は3×7m位の広さで、祠がある。
・ 南側にも27段の階段がある。
・ 7月1日、山開きに合わせて訪問。
《 十条富士 訪問写真−4 》 2013 H25.7.1 |
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山開き | 〃 | 富士神社 鳥居 |
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入口階段 | 富士塚の講碑 | 〃 |
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山開き のぼり | 山開き のぼり & 富士塚の講碑 | 〃 黒ボク |
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〃 | 〃 | 山頂の祠 |
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下山口 | 新聞 | 案内板 |
《 十条富士 訪問写真−3 》 2011 H23.6.24 |
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案内板 | 神社入口 鳥居 | 富士塚の講碑 |
富士塚の講碑 | 〃 | 山頂の祠 |
《 十条富士 訪問写真−2 》 H20.7.1
十条富士入口 | 〃 | 十条富士塚全景 |
富士神社 | 十条富士塚の石碑群 | 〃 |
〃 | 頂上 | 〃 |
《 十条富士 訪問写真−1 》 H20.2.28
十条富士塚全景 | 〃 | 〃 |
十条富士塚 頂上 | 石碑 | 案内板 |
6.飯塚富士(いいづか富士)
・ 所在地=東京都葛飾区南水元2-1-1 富士神社 境内
⇒ JR金町駅・北西1700m。 JR常磐線「金町」駅より徒歩約25分[北口]。
・ 築造=明治12年(1879年)。
・ 塚の概算高さ≒6m。 周辺からの高さ≒6m
※ 富士神社は木花咲耶姫命を祭神として正慶元年(1332)に創建されたと伝えられ、その例祭は毎年7月1日に行われます。
富士塚は拝殿の裏にある浅間山の上に、さらに盛土をして築かれています。
これは明治12年(1879)に地元富士講の人々によって造られたものですが、現在もここに上るための石段や富士浅間の石祠・灯籠などが残され、当時の様子をしのぶことができます。
例祭とともに行われる「飯塚の富士講」(区登録無形民俗文化財)とあわせ、葛飾区における富士信仰を今に伝える貴重な資料です。(葛飾区教育委員会掲示より)
・ 中川沿いの神社。本殿の後の山を改築したもの。周りは柵で囲まれていおり、整備されていないため、立入禁止と自己責任の表示。
・ 本殿の左後からの石段と裏側の中川土手側からの登山道がある。
※ 木花開耶姫命(このはなのさくやびめ) : 木花開耶姫命:水の神/安産・子育ての神/美の神。※富士山を抑える役目を果たしていたとされる。
・ 正慶元年(1332年)に創建され、もともと旧飯塚村の鎮守であった。当時の別当寺は、安福寺が務めた。
(〜 ネット情報等より )
《 飯塚富士 訪問写真−4 》 2013 H25.7.1 | ||
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飯塚神社 & 富士塚 | 案内板 | 富士塚入口 |
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富士塚 頂上の祠& | 獅子 | |
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山頂より | 獅子 | 裏 |
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富士塚 全景 | 石碑 | 飯塚神社 |
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神社本殿 | 神社広場の屋台 | 途中の団地の七夕飾り |
《 飯塚富士 訪問写真−3 》 2012 H24.4.5 | ||
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富士神社 入口 | 境内 | 案内板 |
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富士塚入口 | 富士塚 入口 | 途中の獅子 |
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獅子 | 天狗 | 富士塚 頂上の祠 |
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裏側:北側 | 西側 | 〃 |
7.下練馬富士(富士)
・ 所在地= 東京都練馬区北町 2−41−2 (富士浅間神社(富士嶽神社) 境内)
⇒ (東武東上線練馬駅 南東 約200m
・ 築造 = 江戸時代。 1872年(明治5年)再築、 1927年修築、1951年改築(移築)。
・ 概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m。
・ 溶岩製。
・ 本殿の左側。
・ 浅間神社(富士岳神社)は木乃花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を御祭神とする神社。
《 富士塚 》
・ 富士浅間大社から御分霊した富士塚。
・ 東武練馬駅から5分程の、駅前商店街の一角にある。
・ この商店街は旧川越街道で、富士塚のある界隈は江戸時代まで、下練馬宿という、川越街道の宿場町。 “旧川越街道”ほ標識がある。
・ 富士塚の位置は、旧川越街道に面した浅間神社の社殿の左隣。
・ 高さ 約5m、 周囲 約15〜20mの大きな富士塚。
・ この富士塚は、江戸時代、下練馬宿の富士講、「丸吉講」によって築造されたもの。
・ 全体的に黒朴石(富士山の溶岩石)で覆われている。
・ 途中に、「○合目」の石柱のほか,石像もあり、頂上には石祠。
・ 登山道には合目石や石像もある。 五合目の小御岳神社や富士講中興の祖・食行身禄が入定したという八合目の烏帽子岩などがあり、頂上には石祠がある。
・ ユニークな猿と天狗の石像もある。 二方向からの登山道それぞれを守護するように置かれた覗き見猿と合掌猿。烏天狗と大天狗の石像が目を惹く。
・ 猿は富士山(浅間神社)の神使として登山道の入口などに狛犬のように配置され、富士塚を守る。
・ 天狗(大天狗・小天狗)は小御岳神社の権現。
・ 鳥居脇の登山口からと、二ヶ所、登山道が延びている。
・ 石像の足元にある石柱が3合目、右端に六合目の石柱、左端には七合目、さらに右上には八合目の石柱がある。
・ 下練馬富士塚は、典型的な富士塚。 ミニチュア富士を非常にコンパクトにまとめられた貴重な存在。
(〜 ネット情報等より )
《 下練馬富士 訪問写真−1 》 H24.7.6
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神社入口 | 標識 | 旧川越街道の案内標識 |
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富士塚入口 | 教祖人像 | 三合目 〜 |
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三合目の覗き見猿 | 四合目 合掌猿 | 六合目〜山頂 |
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苔の生えた 黒ボク石 | 〃 〃 | 七合目 |
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大天狗 | カラス天狗 | 大天狗とカラス天狗 |
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山頂の祠 | 〃 | 山頂より |
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裏側より | 〃 |
8.下赤塚富士(富士)
・ 所在地= 東京都板橋区大門 5 (諏訪神社付属地)(諏訪神社付属地浅間神社)
⇒ 地下鉄 都営三田線 新高島平駅 ・ 南西 約900m
・ 築造 = 築造年。 1882年(明治15年)再築。
・ 概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m。
・ ローム土主体の富士塚。
・ 富士塚の場所 ・・・ 諏訪神社の門を出て、十字路をそのまま50m程南下した空地の奥。
・ 鳥居と祠と富士塚の配置がアンバランス。 土の登山道を登った頂上に石祠がある。
・ 講碑は22基。
《 下赤塚富士 訪問写真−1 》 H24.7.6
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諏訪神社 | 江戸時代の田圃 | 〃 |
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百度石 | 狛犬 | 〃 |
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諏訪神社 | 〃 本殿 | 富士塚入口 |
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富士塚入口の鳥居 | 富士塚の案内板 | 仁王像のような石仏 |
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富士塚全景 | 富士塚 入口 | 富士塚 下部 |
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富士塚山頂 祠 |
9.池袋富士(いけぶくろ富士)
・ 所在地= 東京都豊島区池袋本町3-14-1 氷川神社 境内
⇒ JR板橋駅 西方約600m 東武東上線下板橋駅・南西約500m
・ 築造 = 築造年は不明。 1912年(明治45年)6月再築。
・ 概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m。 東西の幅13m、南北18mで、柵に囲まれている。
・ 溶岩製。
・ 池袋富士塚は、典型的な富士塚で、充実してる。 ミニチュア富士を非常にコンパクトにまとめられた貴重な存在。
・ 本殿の左側。柵の中にあり,入れるが登山禁止。
・ 登山道には1合目、2合目、・・・ 8合目までの合目石や、碑、お中道があり、頂上には石の祠がある。
・ 平成10年(1,998年)6月に東京都豊島区指定史跡。
・ 高さ約5m、東西幅約13m、南北幅約18m。 全山がボク石で覆われている。
・ 石積み方という全山がセメントで固めてある。
・ 登山道は正面部分に電光形に設けられており、その道筋ははっきり確認できる。
・ 明治四五年(1,912年)六月に、池袋月三十七夜元講によって築かれたもの。
・ 塚内に造立された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団とのつきあいの様子が知られる。
・ 1912(明治45)年6月に池袋月三十七夜講によって築かれた。高さ5メートル、幅13〜18メートルの塚で登山口から頂上に向かって様々な石造物があり、頂上には奥宮がある。
・ 山開きは、7月1日正午から日没まで。 平成10年に、約半世紀ぶりに山開きが復活。
・ 一般に、富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす石祠、中腹向かって左には烏帽子岩、題目碑、合目石、講碑を配置するのを基本としている。
・ 池袋富士塚の石造物は、基本的な富士塚の配置になっている。
・ 更に、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、教祖角行像、一対の天狗像、猿像など52基の石造物があり、さらには胎内が配置されており、充実した石造物群を構成している。
(〜 ネット情報等より )
《 池袋富士 訪問写真−2 》 H26.7.1 |
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お山開きの案内 | 茅の輪 | 氷川神社 |
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池袋富士塚 | 富士塚全景 | |
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富士塚中腹 | 富士塚 全景 | |
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富士塚 1合目〜 | 〃 | |
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山頂の祠 | ||
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山頂の祠 | 七夕飾り | 〃 |
《 池袋富士 訪問写真−1 》 H25.7.1 |
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氷川神社 鳥居 | 氷川神社 | お山開きの案内 |
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七夕飾り | 作法 | 〃 |
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本殿 | 池袋富士塚 | 富士塚 下部 |
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富士塚全景 | 富士塚 六合目〜 | 富士塚 中部 |
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〃 | 八合目 | |
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山頂石祠 | 〃 | |
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富士塚 | 〃 | 〃 |
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裏側 | 〃 のアジサイ |
10.白山富士(はくさん富士)
・ 所在地= 東京都文京区白山 5−31−26 白山神社 境内
⇒ 都営三田線 白山駅 北方 約150m
・ 築造 = 築造年。 1816年(明治年)再築。
・ 概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m。
・ 富士塚の位置は、本殿右の社務所の奥。 鉄柵があり,6/10〜6/18の紫陽花祭りのお期間のみ入山可能。
・ 一見、土盛りした築山、富士塚の様相がありません。
・ 鳥居には「浅間神社」と書かれている。 鳥居とは反対側に富士講碑がある。
・ 石段を登った頂上に木祠がある。
・ 紫陽花が神社境内で綺麗に咲く。
《 白山富士 訪問写真-1》 H24.7.6
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白山神社 鳥居 | 手水舎 | 絵馬 |
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狛犬 | 〃 | 本殿 |
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富士塚 | 〃 | 〃 |
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富士塚入口山頂の木製の祠 | ||
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ユリ | 〃 |
11.篠塚富士 (しのづかふじ)
・ 所在地=江戸川区上篠崎 1-22 浅間神社境内
⇒ 地下鉄 新宿線 篠崎駅 北方≒1000m。
・ 築造 = 1925年築造
・ 塚の概算高さ≒5m。 周辺からの高さ≒5m
・ 一部溶岩製。
《 篠塚富士 訪問写真-1》 H24.2.4
・ “上鎌田富士塚”訪問後、一旦瑞江駅に戻り、下り本八幡行きの電車で一つ目の“篠崎”で下車。 北口から真北へ真っ直ぐ進み、鹿骨街道交差点の篠崎駅入口交差点を通過、更に真北へ約500m進み、江戸川の土手が見えたら、土手の一つ手前の交差点を左折、森に囲まれた浅間神社に突き当たり、左折直ぐに神社入り口に到着。
・ 鳥居を潜った奥に、浅間神社への階段があり、階段を登りきった所が本殿。
・ 本殿全体が“篠塚富士塚”で、石段の両側に石碑やボク石があり、“富士塚”風になっていました。
・ 階段の両サイドの一部分だけの“富士塚”といった感じで、全体としての富士塚の様相は不十分でした。
・ 入口付近に“篠塚富士塚”の案内板があり、石段の両側には狛犬が見張ってました。
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浅間神社 | 〃 | 〃 |
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〃 | 浅間神社 案内板 | 浅間神社 |
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